『ミリンダ王の問い』(Milindapanh?)の第2回目です。
第1回はこちら↓
早速、中身に入っていきます。
「ミリンダ王は、それで、尊者ナーガセーナにこう質問した、(中間略)
「大王よ、『同朋である修行者たちはわたくしをナーガセーナと呼んでいます』とあなたはいいました。その場合、『ナーガセーナ』と呼ばれるところのものは、いったい何ものですか?尊者ナーガセーナよ、髪がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「身毛がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「爪がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
<以下身体の各部分について同様の質問・返答が繰り返される。すなわち、>
「歯・皮膚・肉・筋・骨・骨髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺臓・腸・腸間膜・胃・糞・胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪・涙・膏・唾・はなじる・関節滑液・尿・頭脳など、<これらのいずれか一つ>がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
当時、すでにインド医学はある程度進歩していて、解剖も行われていました。当時のインド医学では解剖は禁止されていませんでしたから、死体を解剖してこういう臓器があることは知られていました。そのどれも「ナーガセーナではない」というのです。
今度は少しく(※少しばかり)哲学的なことばを使って言います。
「尊者よ、<物質的な>かたちがナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「感受作用がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「表象作用がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「形成作用がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「識別作用がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
ここの五つ、物質的なかたち・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用を、漢訳仏典では「五蘊(ごうん)」といいます。つまりわれわれの個人存在を構成している要素ですが、これを現代的にわかり易く訳してみました。
「尊者よ、しからば、かたち・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用<の合したもの>がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「尊者よ、しからば、かたち・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用の外に、ナーガセーナがあるのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「尊者よ、わたしはあなたに幾度も問うてみたのに、ナーガセーナを見出し得ない。尊者よ、ナーガセーナとは実はことばのことにすぎないのですか?しからば、そこに存するナーガセーナとは何ものなのですか?尊者よ、あなたは、『ナーガセーナは存在しない』といって、真実ならざる虚言を語ったのです。」
そこで、尊者ナーガセーナはミリンダ王にこう<反問して>言った、
「大王よ、あなたはクシャトリヤの華奢(きゃしゃ)な<生まれ>であり、はなはだ贅沢に育っておられる。大王よ、あなたが昼間どき暑い地面ややけた砂地のうえを、そしてごろごろした砂礫(されき)をふみつけて歩いてきたとすれば、足は痛むことでしょう。また、身体は疲労し心は乱れ、身体の苦痛感が生じるでしょう。いったいあなたは、歩いてやってきたのですか、それとも乗り物でですか?」
「尊者よ、わたくしは歩いてやってきたのではありません。わたくしは車でやってきたのです。」
日本でも地面を裸足で歩くと、歩きつけない人は痛みます。ましてインドでは、昼間は猛烈に太陽が照りつけるので、痛いだけではなく暑いのです。
暑さにも堪えられない。ところが修行している修行者は裸足で歩くのは慣れているので、足の裏が厚くなって、歩いてもそれほど響きません。ところが華奢な育てられ方をした人は、そうではなく、身体の苦痛感が生じるであろう、というのです。だから修行者のように歩いてきたのではないでしょう、というのです。
車のたとえ
ここで車に関する部分の一つ一つを取りあげていいます。
「大王よ、もしもあなたが車でやってきたのであるなら、<何が>車であるかをわたくしに告げてください。大王よ、轅(ながえ)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「軸が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。
「輪が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「車体が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「車棒が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「軛(くびき)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「輻(や)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「鞭(むち)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「しからば、大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛・輻・鞭<の合したもの>が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「しからば、大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛・輻・鞭の外に車があるのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「大王よ、わたくしはあなたに幾度も問うてみましたが、車を見出し得ませんでした。大王よ、車とはことばにすぎないのでしょうか?しからば、そこに存する車は何ものなのですか?大王よ、あなたは『車は存在しない』といって、真実ならざる虚言を語ったのです。」(中間略)
こう言って、ナーガセーナはミリンダ王をやりこめたわけです。
そこで、ミリンダ王は尊者ナーガセーナにこう言った、
「尊者ナーガセーナよ。わたくしは虚言を語っているのではありません。轅に縁(よ)って、軸に縁って、輪に縁って、車体に縁って、車棒に縁って、『車』という名称・呼称・仮名・通称・名前が起こるのです。」
つまり部分部分がバラバラにあったり、ただ積み重なってあるだけでは車にはならないのです。それぞれ適当な位置を占めて相互に連結することにより、そこで仮に車という名前ができ上るのです。縁って起こるということです。「縁って起こる」というのを仏教では「縁起」といいます。すなわちいろいろなものがより集まって個物ができるというわけなのです。
そこで、ナーガセーナがいいます。
「大王よ、あなたは車を正しく理解されました。大王よ、それと同様に、わたくしにとっても、髪に縁って、身毛に縁って……乃至……脳に縁って、かたちに縁って、感受作用に縁って、表象作用に縁って、形成作用に縁って、識別作用に縁って、『ナーガセーナ』という名称・呼称・仮名・通称・単なる名が起こるのであります。
しかしながら勝義においては、ここに人格的個体は存在しないのです。大王よ、ヴァジラー比丘尼が、尊き師(ブッダ)の面前でこの<詩句>をとなえました。」
体の部分や、体の中で働いている精神的作用によって、「ナーガセーナ」個人という仮の名前がつけられている。けれども究極的な立場からみると、人格的な個体は存在しない、というのです。
ここでヴァジラーという尼さんの詠じた詩の文句を引用しています。すでに最初期の仏教の時代から女性の尼さんは男子に伍して重要な位置を占めていました。ここにみられるような哲学的な議論をする人もいたのです。その詩の文句ですが、
「『たとえば、部分の集まりによって
”車”という言葉があるように、
そのように<五つの>構成要素の存在するとき、
”生けるもの”という呼称がある』と」
いろいろな部分が集まって車というものができる。それと同時に、われわれの存在を構成する五つの要素(五蘊)が集まって、生きている存在と名づけられるものがあります。これを漢訳仏典では「衆生」と呼ぶこともあります。あるいは唐代以後の漢訳では、「有情」と訳し、「有情」の「情」は情ではなく、むしろ「心の働き」という意味で、「人の働きのあるもの」、ですから生きもののことをいうわけで、人間のみならず、高等の動物はそこに含めますが、そういうものはみな五つの働きが集まっているものだ、というのです。
それを聞いて、ミリンダ王がいいました。
「すばらしい、尊者ナーガセーナよ。立派です。尊者ナーガセーナよ。<わたくしの>質問はいとも見事に解答されました。もしもブッダがご存世であるなら、賞讃のことばを与えられるでしょう。もっともです、もっともなことです、ナーガセーナよ。<わたくしの>質問はいとも見事に解答されました。」
(以上、第一篇第一章・第一)」(中村元「原始仏典」ちくま学芸文庫 392ないし400頁参照)
以上、引用ばかりになりましたが、私の解説は今までに書いてきているとおりです。
次回、同じことになりますがきちんとまとめます。
本文は、この後、中村氏のうまくまとまった解説が続きます。もちろん、次回はその部分も引用させていただきます。
年末・年始仕様の写真が少しあります。
クリスマスホーリー(セイヨウヒイラギ)
葉牡丹(赤)
葉牡丹(白)
ガーデンシクラメン
ノイバラ(野薔薇)
小菊
何度も申し上げているように、現在、少なくとも日本では、思想とか教育とかいった問題が完全になおざりにされています。というより、完全に腐り切っています。
科学技術が発展すれば人が幸福になれる、経済がよくなれば人(の生活)が豊かになる、そういった考え方を捉えただけでも何が間違っているかは明らかで、誰にでもわかることですが、誰もそれを止めようとしない。
いったい何が間違っているのか?誰が悪いのか?
何度も申し上げているとおりです。
次回以降も何度も主張していきますが、ブッダまでさかのぼらなくても、少し前にはそういった問題をきちんと指摘されている方がいらっしゃったようです。
私としても、もう少し早く気付くべきでした。
「学校教育に欠けているもの
ところで、このような仏教精神の欠落が大きな社会問題となっているのが現在の日本社会ではないでしょうか。特に学校教育にその傾向が顕著に見てとれます。
最近、世間で議論されるようになった現象に「いじめ」という一連の事件があります。(中略)
最近学校で「いじめ」の現象が見られ、大きな社会問題となっているのは「人として生きる」という教育がなされなくなって、風潮が「獣」的になったからだと私は考えます。(※実際は、「獣たちの間でも相互扶助が行なわれているという事実」が指摘されています。)
その証拠には、戦前の学校には「いじめ」は見られなかったように思います。あったのかもしれませんが、私には記憶がありません。少なくとも「いじめ」という名詞は存在しませんでした。
戦後になっても、「こころ」の教育が行なわれている学校には「いじめ」は存在しないようです。
(中略)
問題が起きているのは、戦後の公立学校だけであるといえましょう。ということは、戦後の国家または自治体による教育が腐っているからです。その証拠には、子供たちは皆、塾にはしります。もちろん問題のない公立学校も多いのですが、そこでは教職員がむしろ、悪習が起きないように献身的な個人的努力によって警戒している、その精進のおかげなのです。
戦後の思想界、教育界では、人間が「獣」以下になるような言論が幅を利かしてきました。それならば、子供たちが「獣」以下になるのは当然でしょう。最近の教育議論を見ると、教育制度だの学級編成だとか、訓育方法とか、枝葉末節ばかり論じています。問題は精神です。精神が腐っているようなところでは、外面的な機構をいくらいじってみてもダメです。やはり心を取り戻す教育、心を育てる教育が不可欠ではないでしょうか。」(中村元「中村元「仏教の真髄」を語る」麗澤大学出版会 107ないし111頁参照」)
仏教精神とは以下のとおりです。
「縁=関係性の理論
@「ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のように<神がこの世を創る>という意味で因果が一である」という見解も、A「いわゆる唯物論者のように道徳的つながりとしての因と果の否定、因果が[互いに]異なっている」という見解も、仏教では一般に採用されないのです。
さらにB「原因のなかにすでに結果が存在しているという主張」<サーンキヤ学派>も、またC「原因のなかに結果は存在していないという主張」<ヴァイシェーシカ学派>も、仏教によっては共にしりぞけられるのです。」
以上@〜Cについて、もっとわかりやすく言うと、
@仏教では、すべてのものが関係し合って存在しているとし、何者か、あるいはどこかに唯一の原因や起点を求めることはありません。したがってユダヤ教・キリスト教・イスラム教のように、創造主であり唯一である神のような存在にすべてを収斂(しゅうれん)させるような立場はとりません。
A唯物論では、この世の構成要素として物質的変化しか認めないので、精神的世界や精神的価値の存在を認めません。だから善い行ないが善い結果をもたらすとか、悪い行ないが悪い結果をもたらすといった、世界を連続的に見ようとする価値レベルの考えはありません。それゆえ、ある事象が発生する原因は、まったくの偶然としか考えないのです。これでは善因善果・悪因悪果に代表される人間社会の道徳は成立しません。
Bこの考えですと、すべての存在は、その始めにおいて結果が定まっている。つまり宿命論となり、人間の努力は無意味となってしまいます。
C原因(因)の中に結果(果)が存在しない、つまり原因と結果の間に因果関係を認めないということは、唯物論同様、道徳否定につながります。特にこの場合は、ヒンドゥー教で考えられているような呪術で人間の運命は左右できるという立場を認めることになります。
仏教と近代科学の共通性
仏教は近代科学とはまったく無関係でしたが、「宇宙の一切のものが原因となる」という考え方において、共通の相似た思惟方法が認められます。
(中略)
科学は知覚され得るもののみに限って論ずるのですが、仏教はさらに原理的な立場に立って、単に知覚され得るものばかりではなく、考え得るあらゆるものについて、この因果関係の連鎖を考えるわけで、その範囲は限定されていません。そこまで思いを馳せることが、真相を捉える所以ではないでしょうか。
いずれにしても、人格の独自性は仏教が説くように、それぞれの人が受けている無限に多くの原因・条件が異なったものであるとすることによって、はじめて説明がつくのです。」(同書 38ないし43頁参照)
さらに現在に至っては、(すべての)学校教育がいかに腐り切っているか、(最新の)科学がいかに頓珍漢か、火を見るよりも明らかではないでしょうか?
※何度も申し上げているとおり、これらはすべて政治問題(国民一人一人の問題)です。
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